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ドルメン支石墓(天神山祭祀場)

天神山周辺の史跡案内(1)

天神山の南側の小さな尾根の突端に巨石群が点在する石室古墳(塚穴)があります。

ドルメン支石墓(天神山祭祀場)

巨石群
石切りの痕

その中に日本の祭祀の始まりで、「原始祭祀遺跡」と想定される支石墓があります。
これは韓国語でドルメン・コインドル(石を積み重ねて造った墓)と呼ばれるものです。

天神山祭祀場(ドルメン支石墓)

縄文・弥生の頃に韓国で無数に造られたもので、世界遺産にも指定されています。
日本でも九州にいくつか存在しますが、近畿地方には極めて珍しく、数千年経った今でも完全な形で残っています。
この付近からはしばしば須恵器の破片が出土したという記録もあります。遺跡はその台地の西よりやや一段高い所にある巨石をめぐって、20数個の大小の石が円形に並列し、正面の巨石(通称船石)は長径が約3mもあり、小石を四角く積み上げた上に据えられています。この点在する巨石群は、一見して極めて特殊な構造を持った遺跡、遺構であることがわかります。

また夏至や冬至あるいは春分・秋分の太陽の方位に合わせて作られた古代遺跡が世界各地に残されていて、夏至や冬至を特別な日として祭祀を行なう風習がありました。

この天神山祭祀場(ドルメン支石墓)の真正面は冬至の日の出あたりで、冬至を特別な日とし祭事を行ったのではないでしょうか。
こうした原始的な信仰は、日本に限らず世界の多くの民族に共通したもので、一旦死にかけた太陽の復活を願って「魂振り」と「魂鎮め」と称する鎮魂の行事が世界各地で行なわれるようになりました。

ここで「冬至」について記載します。
一年のうち最も昼が短くなる冬至。
冬至とは「日短きこと至る(きわまる)」を意味します。
夏至の日から徐々に弱まってきた太陽の持つ「陰の気」が、これから徐々に強まっていくという「陽の気」に代わる日です。
この考えを「一陽来復」と呼びます。

古代の正月は冬至の翌日で、古事記・日本書紀には天皇の正月即位の記述が多くあります。
例えば初代神武天皇は、辛酉の年春1月1日、橿原の宮にご即位になったとあります。
橿原神宮は冬至の日の出方向に向いています。

高穴穂宮と通尾天神社

文献書の帝王編年記に記載されている高穴穂宮址の所在で、気になるキーワードをピックアップし赤線を引いてみました。

高穴穂宮は
滋賀県滋賀郡坂本村に穴太の故名を残す地域
現在の穴太に高畑と字する地の丘陵の一処を館所と称し・・・
竹藪中に古くより無文の碑石様のものがあり、土俗不動石と言う。
その(土俗不動石)後方に新しく高穴穂宮の宮址碑を建設して・・・
壺笠山下の野添と称する美麗なる丘陵・・・

これらの言葉に古地図上に地名を当てはめてみるとこのようになります。

日本書紀には景行天皇は3年間、成務天皇は60年間、仲哀天皇は1年間 高穴穂を御所とされた記録があります。
このことと先述した天神山祭祀場(ドルメン支石墓)の「一陽来復」の考えを照らし合わせてみます。
●天神山祭祀場(ドルメン支石墓)
冬至の翌日の日出が正面になる様に作られている・・・エネルギーがこの日から増えていく
●景行天皇の陵
夏至の日の日出が入る様に作られている・・・エネルギーがこの日から減っていく
景行天皇が関わっておられるのでこの対比には意味があるのではないか、と考えます。

つまり、これらのことを総合的に考えてみると通尾天神山山内にある巨石群や祭祀場(ドルメン支石墓)のあった場所付近が、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇がおられた「御所」であったのではないかと想像が膨らみます。